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浄玻璃の鏡 [違和感]


2015/11/21

大嫌いな言葉ですが概念語として便利に使うと、

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やんちゃ系()とやらを自負していた
俳優さんやらタレントさんやらが、
50歳にもなると急に和服やら作務衣を着てみたり、
肉や魚を食べるたび、
「命をいただく」的な台詞を吐くのを聞くと、
性根の曲がった私はとても違和感を感じます。 [参考]

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見た目の容色が衰えたぶん、
精神性でアピールしたいのだとすれば
あまりにも痛々しいですし、
仮に何かに達観した結果の言葉だったとしても
自分の肚に収めていればいいことで、
人に百万遍吹聴したところで何の免罪符にもなりません。

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必要以上の飽食や無為無駄な殺生は論外にしても
自らの命を永らえるために他の生きものを食べ、
地球の環境に少なからずダメージを与えることを
避けられない以上、
言葉で体裁を繕おうとはせず
尋常に閻魔大王の裁きを受けるほかありません。

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もちろん食べものに対する感謝は必要なことです。
生産農家や流通,調理に関わる人たち、
食卓を整えてくれる家族。

そんな肝心な足元をすっ飛ばして、
いきなり生命の尊厳を説いて得意気な先生方とは
一生仲良くなれないような気がします。

ま、向こうもお断りでしょうけど。 ( ゚∀゚)

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人間の持つ根源的な浅ましさ。
それを覆い隠すため、
昔から色んな工夫が為されてきました。

食べるという動物的行為を形式美に昇華しようとした
茶の湯なんかがよく例として挙げられますね。

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そんな何百年にも亙る先人たちの苦労を、
左巻きのプロ市民や団塊の皆さんが
すっかり台無しにしてくれました。
言わなきゃ損とか他人より前へとか。

本音トークと言う名の思考ダダ漏れ俺様論法。
勘弁してください。
勝手にぶっちゃけてろよ、キム○タク○。 伏字無意味

沈黙が決して無(ゼロ)ではないこと、
損が必ずしも負(ネガ)ではないことを
100年前の日本人なら知っていました。

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ごめんなさい、話が逸れました。

「人間本来糞袋」という禅語があります。
いくら言葉で飾ったところでその本質は変わらないし
「命をいただいている」なんてスカしたところで、
背負ったカルマからは逃れられない。


9月の連休に読んだ「宮本武蔵 (吉川英治)」。
読了直後は時間の無駄だったと後悔しました。

司馬遼太郎のように心に熾る火もなければ、
山本周五郎のように空いた電車で膝を揃えて座る
律儀な爽やかさもありません。

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ただ2か月近く経って多少は腑に落ちたのでしょうか、
高次の精神性といった気負ったところではなく、
根源的で単純な算数のようなものが芽を吹いた気がします。

 生死には自他の別なく
 勝っても奢らず負けても恨まず

このへんの覚悟がないから閻魔様と取引しようとする。
勝者になることにのみ腐心しじたばたする。

恥を知り、自身の身の丈を知るならば
芥子粒ほどに縮こまって無に近づくべきなのに、
声高に格好いいことを言おうとする。

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死後、漏れなく浄玻璃の鏡の前に据えられるのならば
残りの人生は妙な理屈を繰るために費やすのではなく、
課された罰を正直に受け止める胆を練り、
澱のない平明な心を磨くような生き方をしたいと思います。

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うん、







くどくどとみっともない言訳日記だな。

ごちそうさまでした。 ( ゚∀゚)


追伸、

おばけの話をしている時に、

  「一番こわいのは生きている人間」

とか言う奴もキライです。



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